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写経会【毎月第4土曜日開催】

般若心経 写経会参考資料 その4

【原文】 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法

無眼界 乃至無意識界

無無明亦 無無明盡

乃至無老死 亦無老死盡 (漢字はすべて現代漢字)

【和文】

眼耳鼻舌身意もなく 色聲香味觸法もなく

眼界もなく 乃至意識界もなく

無明もなく また無明の盡くることもなく

乃至老死もなく また老死の盡くることもなく

【意訳】

眼、耳、鼻、舌、身体、意もない。

それに付随する、ものごとの形、音、香、味、感触、法もない 目に見えている世界もなく あるいは心の中の世界もない                    迷いもなく また迷いが尽きることもない

あるいは老死もなく また老死が尽きることもない

【用語解説】

觸 身体で触れて知覚されるもの

法 真理。道理。正しい理法

界 世界

無明 真理に暗いこと。一切の迷い、煩悩の根源

盡 尽きる。

乃至 または。あるいは。

老死 老いて死ぬこと

【参考解説】

 今回も、観音様がお釈迦様の弟子であるシャーリプトラへの呼びかけの続きになります。経文を見ると 「無」の字がずらっと並んでいます。前回の箇所では「不」が並んでいました。少しわかりにくいのです が「無」と「不」の違いについて少しご説明したいと思います。「不」というのは作用を打ち消す働きが あります。「不生不滅」の場合「生きる」「滅する」という作用です。国語的に言えば用言を打ち消す働 きがあります。動きや働きがあるものを打ち消すときに「不」は使われます。一方で「無」はものごとの 存在の無いことを表します。ですから「有る」の反対を表しています。「不」は動作を否定し「無」は存 在の状態が無であることを表している、という違いがあります。  ですから、今回のところは、~は無いという状態を連ねている箇所であることが分かります。最初の二 句は対になっていて、眼()(みみ)(はな)(した)(からだ)(こころ)は無い。だか ら、それに付随する色(視界)()(かおり)(あじ)(感触)(ことわり)も無いと書い てあります。その次も同じ様な内容です。厳密に言うと違うところもあるのですが、色界というのは眼耳

 

 鼻舌身意のうち最初の5つの意以外で感じられる世界、意識界というのは意で感じられる世界だと思いま す。眼耳鼻舌身意が無いのだから当然これも無いのです。というのが本文の2行目までの内容になりま す。私たちは、この世界でものを見るとき実際にはどんな作用が起こっているでしょうか?わたたちの目 の前にあるものを捉えて、目という道具を通して、何らかの信号に変え脳で処理をして初めて目の前にあ るものを確認できます。ですから、2人の違う人が同じ絵を見ても、好きと思う人もいれば、好きでない と思う場合もあるのです。目から受け取った情報は人によって処理され方が違うからです。この例のよう に、私たちの感覚器官はものごとを正確に捉えているように錯覚してしまいますが、実際には曖昧で自分 主体での見方しか出来ていない場合がほとんどです。心の世界においても同じです。すべてのものごとは 私たちの眼耳鼻舌身意を通すことでしか捉えることができないのです。ですから、この世界には、それだ けでそのものの存在を表すものというのは無い、これが、「無色界無意識界」の意味することではないか と思います。りんごも、好きな物と感じる人もいれば、嫌いなものと感じる人もいます。このような、私 たちの認識の方法を説明するための経文なのだと思います。  次に無明と老死の部分があります。これらは「無」でありつつも尽きることもないといと書いてありま す。無明とは、仏教でいう無知のことです。仏教の教えはしばしば光に例えられます。その光のない状 態、それが無明です。また、老死というのは老いて死ぬことです。ここでは、無明と老死しか出てきてい ませんが、これは十二因縁というお釈迦様の教えの中に出てくる2つにあたります。お釈迦様は、無明、 行、識、名色、六入、觸、受、愛、取、有、生、老死という十二の因縁が連鎖していることを突き止めま した。また、その連鎖の中で無明をなんとかしない限り私たちの苦悩は無くならないと考えたのです。十 二の因縁を一つ一つ取り上げていくのは次回以降の課題としたいと思います。大枠で言うと、十二の因縁 とは無明から老死までの、肉体生命に魂が宿り死んでいくまでの過程と、老死の後に無明に戻る繰り返し を説明したものです。般若心経ではこの十二因縁の最初と最後を代表して掲げたのではないかと思われま す。その十二因縁でさえも「無」でありながら尽きることがない。いったいどういうことでしょうか ご存知の方もいるかと思いますが、お釈迦様は出家する前は一国の王子様でした。何不自由ない生活を 送っていました。仏教で言えば無明の状態といえるでしょう。その中で出家し、後に大変な苦行に励みま す。ミイラのような骨と皮になる程の修行で命を落としかけたこともありました。その修行のなかで、極 端な修行でも悟りは得られないことに気づき、その後悟りに至ります。お釈迦様の一生になぞらえると今 回の箇所は納得がいくように解釈できる気がします。普通に考えれば、無明(仏の教えに暗い)の状態で あれば仏の教えを得るべきだと思います。しかしながら般若心経では「無明もなく また無明の盡くるこ ともなく」というふうに実にどちらにもつかない内容が書かれています。これは、お釈迦様の一時試みた 苦行のように、極端に偏った思想だけでは悟りには近づけないということを表しているのだと思います。 例えば、般若心経に書かれているように私たちの感覚器官は曖昧なものだから信じない、私たちの世界は かりそめなものだから気にしない、とします。これらは経文からすれば間違ったことではないのだけれ ど、これを今私たちが行ったらどうでしょうか?仙人の様な目で見られ、世間の人たちと関わりを持つこ とすら難しいでしょう。お釈迦様の生きた時代でも同じだったと思います。仏の教えに触れ、真理を理解 することは重要なことです。しかし、それを知っても私たちの生活の中にそのまま落とし込むことは非常 に難しいことです。大切なことは、仏の教えを私たちが生きて行く上で活きる智慧に変えることです。  私たちは、この体と心を持っている以上、常に欲望や感情に振り回され無明から離れることができませ ん。無理に離れようとしても、どうしても無理が出てきてしまいます。なぜならこの世に生きるすべての 人が、同じように無明の中にいるからです。その中でどうすれば、智慧に向かって生きられるのか。それ は、仏の教えを知りしっかりと真理を理解した上で、この世界のありのままを捉えるということです。無 明が溢れている世界をそのまま何も考えずに受け取るのか、仏の教えを知った上で捉えるのかで全然捉え 方が変わってくるはずです。曇った心で空を見上げても感じるものは少ないはずです。晴れた心で空を見 上げれば、たとえ無明の溢れる世界であっても、心を乱さずしっかりと本当の自分の道を歩めるはずで す。無明と法(仏の教え)の両極端を知った上で、あえてその真ん中に立ちありのままを捉えることがで きれば、すべてのものに感謝し感動できる私たちになれるはずです。その真ん中の状態それが「空」なのではないかと私は考えています。そのためには智慧が必要です。

 

そこでその方法を示していいるから、般若(パンニャー→智慧)波羅蜜多(パーラミター→完成)心経(中心の経)=般若波羅蜜多心経、なのです。