般若心経 写経会参考資料 その2
【原文】
度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識亦復如是
(漢字はすべて現代漢字)
【和文】
(観音菩薩は)一切の苦厄を度したもう 舎利子
色は空に異ならず 空は色に異ならず
色すなわち是空 空すなはち是色
受行想識も亦かくのごとし
【意訳】
観音菩薩は一切の苦厄の道理を説かれた シャーリプトラよ
この世にあるもの(物質的現象)は実体がないこととは異なることはなく、実体がないことはこの世にあるものと異なることはないのである。
この世にあるものは実体がなく、実体がないというのはこの世にあるもののことである受行想識もまた同じである
【用語解説】
度 生死の彼岸から涅槃の彼岸に渡すことから、道理を言い聞かせて納得させるの意
一切 一切のもの、すべて
舎利子 シャーリプトラ お釈迦様の十大弟子の一人
五蘊 色(しき) ルーパ ものごとの形
この世にあるもの
受(じゅ)ヴェーダナー 感覚
楽しいことや、辛いことを感受すること
想(そう) サンジュニャー 表象
赤を赤と見分けられる働きや、赤と白を見分ける働き
行(ぎょう)サンスカーラ 意志
私たちのこころが向かうこと
識(しき)ヴィジュニャーナ 知識
眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)で感じられること
空 (実体がないこと)?
【参考解説】 今回の部分は、前の箇所の観音様が五蘊が皆空であることを照見した、というところの続きからはじまります。観音様は更に一切の苦や厄を度し給うとあります。度というのは、日本語でいうと「度する」という言葉です。仏教では私たちと仏の間のことを川に喩えます。我々のいる煩悩の世界から 悟りの世界を観た時に、悟りの世界はちょうど対岸に位置する為にそれを「彼岸」と呼びます。そう いったことから「度する」には,その川を渡すという意味があります。ですから、仏の教えを得て悟り にいたることを指します。
次に、また登場人物が現れます。それは舎利子、シャーリプトラです。日本では舎利弗尊者と呼ばれることが多いです。お釈迦様の弟子の中でも特にすぐれた10人の弟子を、十大弟子と呼びます。 その中の一人が、この舎利弗尊者です。生まれつき聡明で、お釈迦様からの信頼が最も篤かった為 に、教典のなかにも良く出てくる尊者です。智恵第一と言われ、智恵深い活動をしていましたが、お釈迦様よりも先に亡くなられています。
舎利弗尊者に観音様が自分の得た、仏の智恵を諭している場面であることが分かります。原文の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の部分は訳を読んでも意味が分からないことが多いの ではないかと思います。中国の天台の祖、天台大師智顗(ちぎ)が空仮中(くうげちゅう)という考え方がここにあてはまるのでご紹介したいと思います。実際のサンスクリット原典(古代インド語)の教典を三蔵法師が訳す際に、「色は空から離れることはない」というような部分が省略されています。ですから省略した部分を合わせて「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の部分は3段に分かれます。 1段目は、色は空から離れることはないということです。私たちの存在やこの世にあるものはすべ て、なくなったり変化があり、そのものという確固たる存在は無いということです。たとえ災害があれば、多くの命を亡くします。また何かが無くても、時間が経てば、どんな命でもなくなります。物でも同じことです。極端に言えば何もの10秒後に確実にあるとは言い切れません。また今いる私もただ独立して居るのではなく、数えきれないものの関係性の中に私を見いだしているというだけなのです。大雑把に言えば、そのものに、何か存在らしいものというものはなく、すべての本質は空っぽである。だから、私たちの見たり感じたりしているものは全く当てにならない、実際にあると思っているものは空なのだから、ということです。これは天台大師のいう空のことです。 2段目は「色は空に異ならず 空は色に異ならず」の部分です。空の段階を受けて、そうは言って も、そんなことばかり言っても..というのは凡人の私たちにもなんとなくわかります。矛盾が生じます。私たちの見ているものが当てにならないという根拠はわかっても、実際に今ここにいる自分がいるし、目の前にも確かにあるというものが存在する。そればかりは疑えないのではないかと考えました。そして、本質的には実体はないのだけれど。仮にここに在る、また見えるものは認めようと結論 づけました。これは天台大師のいう仮のことです。 3段目は「色すなわち是空 空すなはち是色」の部分です。第1、空の段階では、私たちが見たり感じたりしているものはすべて、実体がなくあてにならないと言いました。第2、仮の段階では、私たちが見たり感じたりしているものは、実体がないのだけれでも、仮に認めることが必要だといいました。この2点をふまえて、第3の段階であてにならないからこそ、すばらしいと思えることがあると考えました。人間にしても、儚いなかで今いきているからすばらしい。桜が365日咲いていたら、そこま で愛される花になり得たでしょうか?一瞬の儚さ、限りのあるということがすばらしいと感じさせる ということになります。1週間程度の命の桜もそれ以外の日があるからこその存在であるし、人と人の巡り会いも長い歴史・広い世界のなかで出逢えるからすばらしいと感じるのです。だからこそ、儚いもののなかに、永遠や無限を感じられるのだと思います。これは天台大師のいう中のことです。
色即是空という言葉は、仏教をあまり知らない人にも知られているあまりにも有名な言葉ですが、こんな意味を含んでいるのだから、それも頷けます。そして最後にそのほかの受想行識も同じですよと結び今回の箇所は終わりになります。