体育会系の仏教
この世の真理とは何か?恐らくこの問いに答えられる人はいないでしょう。真理を噛み砕いて言えば「絶対に疑えないもの」と言うことができます。紀元前の古代ギリシャの時代から「この世界の真理とは何か」ということは近代まで大真面目に考えられてきました。古代ギリシャの時代には、全ての根源は「水」と考える人もいれば、「火」と考える人もいました。近代では「われ思う故に我あり」というように私自身の心は疑えないという考えも生まれました。どれも現代では、ある側面では正しくても、ある側面では正しくないので真理ではないとされています。
実は、真理とは何かという問いに挑んでいる現代の思想家や哲学者は、ほとんどいません。なぜなら、その答えが出てしまったからなのです。
その答えはというと・・・・「ない」もしくは「分からない」という誰でも辿り着きそうな答えで決着が着いています。2000年以上考えてみて分からないのだから、考えても仕方がない、ごく簡単に言えばそれが答えです。
仮に、真理が分かったとしても、毎日太陽が昇って沈むことは変わらないだろうし、時間が経てばお腹が減ることも変わりません。もっと時間が経てば私たちの命が尽きる、ということも変わりません。
仏教に限らず現代の思想家のほとんどは真理への追求をやめ、今の私たちの「実用性」や「有益性」を追求する方向に進んでいます。自分たちには見えるかどうかも分からない真理を追求するよりも、今の悩みや、今の生きがいを考えていく方が意味があると考えたのです。
仏教にもそう言った側面が大いにあります。
六波羅蜜という悟りに至る段階を示したものがあるので、ここでご紹介します。
1 布施波羅蜜・・分け与えること
2 持戒波羅蜜・・戒律を守ること
3 忍辱波羅蜜・・耐え忍ぶこと
4 精進波羅蜜・・努力すること
5 禅定波羅蜜・・心を安定させること
6 般若波羅蜜・・道理を見抜く智慧(ちえ)を得ること
この1から6までの段階を踏むことによって、私たちの仏教の目標が達成されるとされています。
何が言いたいかというと、この6段階のうち頭で理解するのは最後の般若波羅蜜だけで、そこまでの5段階は全て生活の規範というか、体で覚えるような内容になっています。
人間の場合、体と心は繋がっていて切り離すことができません。ですから、私たちが仏教の目標とする状態になるには頭で分かることも大切ですが、それが行動として現れなければ意味がないということになります。
こんなことを書きながら、私自身は頭で考えてばかりで、行動に移すことが苦手です。頭で高尚なことを考えていても、耐え忍んだり、努力したり、心を安定させなければ、その考えは無駄になってしまいます。
そう考えると実は仏教は体育会系なのかなと密かに思っています。現在仏教は様々な宗派があり、教えも多岐に渡ります。写経、坐禅、念仏、密教・・・どれも先人たちが、今を生きる私たちの心と体を導くために考え抜かれた修行方法です。「なぜやるのかを考える前に、まずはやってみなさい」と修行中に言われたことが、今になって腑に落ちてきたような気がしています。
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